みくまり~あの日の言葉呼び起こす

CHAGE&ASKA、ASKAのこと。人生そのものの彼らについてひたすら語る

日常の風景

日常の風景

 
ヨハン・パッヘルベルのカノンが流れる中を

ひとりの青年がスローモーションで機関銃を撃ち放す

その時

殺戮はまるで日常の風景のようだった

 

かけ離れた出来事というものは他人事のようになるものだ

心の中にザラついたものがない

動かない絵を何も考えず眺めているだけの景色だ

 

自分が自分を気にしすぎると前に進めなくなる

他人の目を気にしても他人はそれほど暇じゃない

 

返せば

みんなが自分にいっぱいなのだ

 

心のわずかな領域で

子猫のように体を寄せあって

明日の重心をとるのも悪くない

 

生きてることに飽きたからといって

直ぐに死ねる人たちには

無言の拍手を贈ってあげよう

 

孤独な冒険家が得る満足は

孤独な冒険家にしか分からない

 

欠落した痛みの理由は

墜落した者にしか分からない

 

傷んだバナナを口に頬張ると

少しだけシンナーの臭いがする

僕にはそう感じるのだ

 

人それぞれは人それぞれに人それぞれを歩き

与えられた地面の上を運命という名で進んで行く

 

僕は夏の海のようにデリシャスで

すべての共有になりたいとどこかでいつも願ってる

それが日常の風景のようになった時

きっと僕は満足するのだ

 

2016.8.5

ASKA_Burnish stone's blogより

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ブログに掲載され、その後は詩集の制作のために削除された散文詩

いくつかは詩集に掲載されたが、されないままの素晴らしい詩がある。

もう見れないのはとても残念でもったいない。

これは中でも私がとても気に入ってるものである。

 

書き出しがとても秀逸だと思った。

 

ヨハン・パッヘルベルのカノンが流れる中を

ひとりの青年がスローモーションで機関銃を撃ち放す

その時

殺戮はまるで日常の風景のようだった」

 

穏やかなで幸せに満ち満ちたあのカノンと

機関銃を撃ち放すという衝撃的な場面が

対比するように並べられているのだ。

そしてそんな凄惨な場面が日常の風景であると。

 

まるでシュールな映画の一場面を浮かべるかのようだ。

 

それは私にひとつの場面を思い出させた。

ASKAさんの逮捕の時の映像だ。

それも二度目の時のあの映像。

 

「かけ離れた出来事というものは他人事のようになるものだ」

 

とあるように、自分にとってかけ離れた出来事だった。

報道陣にもみくちゃにされている場面。

それを眺めてなんやかやという憶測で語るスタジオ

さらにそれを呆然と家のテレビで見る自分。

目の前に見えるものを現実に起きているものとは認識できないような状態

 

それは私にとって大変インパクトに残ってしまった場面だけれど、

かけ離れた出来事っていうのはこの世界に常にある。

毎日起こる世界中のニュースに大変だと思いつつも

それを眺めているのは画面のこちら側で

どうしても他人事のようになってしまう。

バランスをうまく取れない。

 

そんなことを思う書き出しの数行。

 

そして人は感じ方も抱える痛みもそれぞれだという

 

その上で最後には、

 

 

「僕は夏の海のようにデリシャスで

すべての共有になりたいとどこかでいつも願ってる

それが日常の風景のようになった時

きっと僕は満足するのだ」

 

生きていれば大なり小なり、凋落はある。

しかしなかなか多くの人が体験しえないほどの転落を彼は味わった。

それでも「歌詞は共鳴」「僕の作る歌はポップス」と言い続けてきた彼は

変わらず「すべての共有になりたい」と願う。

 

http://aska-burnishstone.hatenablog.com/entry/2016/10/28/034613

この時のブログでこんな風に語っていたことがあった。

 

「自然は作って行くものではありません。

自然は作られて行くものです。

意志だけは手放さず。そして、それを見る人たちによって作られて行く。

僕が自然になるためには必要な過程です。」

 

まだ活動を少しずつはじめた彼がいつかブログに書いた言葉が思い出された。

ここでいう自然は、「普通」ということだろう。

事件を起こした特異な存在ではなく

今までのように音楽活動をしてきたその存在に戻ること。

それが日常の風景。

 

つまり音楽活動の中、彼の音楽を聴く人たちに、

大衆に再び認められたいということじゃないかと思う。

もしかしたら、ライブ会場でオーディエンスと一体になった場面を

思い浮かべていたかもしれない。

 

それが日常の風景であってほしいと。

これを書いたときは、

彼にとってはそれがかけ離れたもので、

動かない景色だったのだろうと…