みくまり~あの日の言葉呼び起こす

CHAGE&ASKA、ASKAのこと。人生そのものの彼らについてひたすら語る

ASKA premium ensemble concert -higher ground- 高崎公演の記憶

 higher ground tourのBlu-rayも発売されたということで、

以前書き留めていた高崎のライブの記憶もここに残しておこう。

 

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2020年2月2日。

今回ライブでは初めて訪れた群馬・高崎
できたばかりの会場ということでそれも楽しみの一つでこの日を待っていた。
席は10列目の真ん中より
緩やかな傾斜の会場は視界ばっちり
そして気づく。
立つとちょうどステージのASKAさんと同じ目線だ。


前回の新潟から2週間ほど空いていた高崎のライブ
きっとこのお休みがいい効果をもたらしてくれるだろう。
そんな思いは的中した―

 

美しいストリングスのオーバーチュアが
「We love music」に繋がる。
あのリズムでお腹の底からワクワクが湧いてくる。


そして1曲目の「僕はMusic」
「僕らは繋がっている」の部分でののびやかな声で確信した。
「今日すごいぞ…」と。


最初ステージ上の姿を見て、
少し元気ないのかなと思ったけれどそうじゃない。
力んでないのだ。
リラックスして余裕の姿なんだろう。
いつも通りのセットリストで1曲2曲と進んでいくが
いつもよりずっとリラックスして余裕で

「めちゃくちゃ声が出てる!!!」

あとはもう基本ニヤニヤしっぱなし。
こちらも何も力むことない。
ASKAさんの歌声に身を委ねよう。
そんな気持ち。

油断したのは「はじまりはいつも雨」
もう何回もライブで聴いてきた定番の名曲。
それなのに、それなのに
泣いてしまった。
なぜだろう…
本当にのびやかで美しくて完璧だった。
今、目の前で歌うASKAさんに、かつてのASKAさんを重ねて聴いた。
そう、昔と今が混在する贅沢な瞬間を味わった。
この日は90年代ごろの曲は特にそんな風に聴けたのだ。
かつての歌声と歳を重ねてさらに深くなった歌声。
その両方がすっかり全部味わえるというとんでもない贅沢。

「修羅を行く」
この日はおそらくクネクネは控え目
だったんじゃないだろうか。
だって余裕だから。
いやそれでもスタンドマイクを握りしめ
クネクネする濃い色気を発するASKAさんと
歌声と赤い照明に集中するのみ。


「しゃぼん」も素晴らしかった。
今のASKAさんそのものを全力で
出し切ってくれている。
この曲を歌うとき、本当にASKAさんに
問いかけられてるようでじんと沁みる。


「good time」や「帰宅」などのじっくり静かに味わうタイムも本当に良かった。
ずっととこの時間が続けばいいと思った。
本当に良かった。
というかもうこの日はそれしかない。

 

alive in liveを彷彿させる「RED HILL」も最高だった。
会場を飲み込むモンスターのような異様な力のある楽曲だ。
それを歌いこなすのだからやはり凄いんだこの人は。
この曲でもう前半に大きなヤマを持ってきてしまうのだから。

 

MCの質問コーナーのやり取りもとてもスマートで
これまた完璧だった。
私的ハイライトは生声と
ノーバンで返したキャッチボール。
ハンサムすぎるでしょ。


それと別のMCでここの会場は
「拍手とか音が降ってくるようで気持ちいい」
ASKAさんが言ってたくらい、音響がよかった。
音の粒が感じられるかのように聞こえることが度々あった。


館長さんに始まる前に「また来てください」
と言われたのが嬉しかったというASKAさん。
「まだどんなライブになるのかもわからないのに笑」
いやきっとリハーサルからいい雰囲気だったんだろう
と想像がつく。
こちらも聞いてて嬉しくなる話だ。

そして後半の見せ場の「百花繚乱」からの
higher ground」はさらに凄まじかった。
絶好調のASKAさんの声とバンドと
ストリングスの分厚い音が会場を包んだ。
というか既にはみ出てたんではないだろうか。
とにかく「百花繚乱」がかっこよすぎるので早く音源が欲しい。
(その後出たアルバム。オリジナル音源は
当然めちゃくちゃカッコよくて素晴らしい仕上がりだった)


圧巻のアンコール。
ここで再び泣きタイム。
「一度きりの笑顔」がさらにさらに心に響く。
澤近先生のピアノも美しく冴え渡る。
本当にこの歌はロンドンでの暮らしが
物語になってスクリーンに浮かぶよう。


続く「PRIDE」も本当に神懸っていて、
差し伸べた手にマリアがというか
光が見えるようだった。

ダメ押しの「BIG TREE」
これはもう震えました。
びっくりした。
「おおきなはた~をたてて~ながんめているう~~」のとこ!
これなんだっけ、そうだMOVIE GUYSのラストに歌うあれだあれと同じ響き。
震えますよ。だって何度となく見たあの映像。
カウントダウンの時ももちろんよかったけど
それよりもあの映像で見たBIG TREEだよと思って。
よかった、本当に。
この曲が今回のツアーで聴くことができて。

全ての曲が終わりエンドロール
最後にASKAさんがリップシンクで会場に向けて軽くパフォーマンスしてくれる時間も
この素晴らしいライブをみんなで喜び合い、名残り惜しむみたいで良かった。
終わらないで~と思う気持ちと
最高のステージをありがとうと思う気持ち。
そういうものを共有しながら宥めながら終わっていく

会場を出ても大興奮が冷めやらぬで、
見つけたファン友さんを捕まえ、年甲斐もなく大きな声で
よかったね、よかったねと言いながら駅に向かった。


そんなわけで今ツアーは仙台、国際フォーラムに続き3回目、
ここ高崎で私は終わりになってしまうのだけれど
追加公演も行きたいという気持ちもありつつ、
こんな素晴らしい
終始完璧なステージを観て最高!
それでいいじゃないかという気持ちにもなった。

高崎のあの夜はまた深く深く心に刻まれたライブの夜になった。
ASKAさんありがとう
あと4本さらに素晴らしいステージを…

 

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このライブレポを書いたのは5日後だったが、

その後神奈川、東京(上野)のステージを行ったあと、

コロナの影響により残り2公演は延期になったままである。

 

 

 

夏の歌

思いつきでCHAGEASKAの夏を感じる歌でもいくつか挙げてみようかなと…

 

1.no doubt  <アルバム「NO DOUBT」>

 

歌詞 http://j-lyric.net/artist/a000674/l013b54.html

 

youtu.be

 

「僕らは夏の肌が消えるように別れた」

繰り返されるこのサビで分かるように別れの歌だ。

どこにでもいるような、ささやかに恋をして、

やがてその終わりが来るふたりを歌った歌だが、

恋をしている間の描写がとても優しくて甘くて美しい。

 

なにがno doubt(間違いない、確かである)かと言えば

別れてしまったが恋をした想いに間違いはない、ということである。

 

そして何より私が夏を感じるのは前出のサビよりも

「僕らは愛の色を伸ばしながら通り抜け

絵の具が切れたとこにたたずんでいた

空と海を分ける線のように」

の部分である。

 

このアルバム全体が青が使われているせいかもしれないが

見事に夏の空と海の青が頭に浮かぶ。

この表現が美しく切ない。

空と海の線。

それは決して交わることのない線なのだということ。

 

 

2.「もうすぐだ」<アルバム「CODE NAME.2 SISTER MOON」>

 

歌詞http://j-lyric.net/artist/a000674/l0005d4.html

 

「夏の焼けた石を耳に当てる 水の落ちる音を待つ

塞がれたあの日の 記憶が音を立てて戻ってくる」

 

夏、焼けた石、水の落ちる音と

鮮烈なほど夏の情景が浮かぶ一節だ。

 

これは子供時代の経験で、

耳に水が入ったとき、プールサイドの床に耳を当て

水抜きをした記憶を描いたものである。

 

疾走感があり、夏らしい一曲。

 

 

3.Sons and Daughters~それより僕が伝えたいのは <アルバム「RedHill」> 

 

歌詞 http://j-lyric.net/artist/a000674/l003197.html

youtu.be

メロディや言葉選びからハーモニー、MVといい、

ほんとうに何から何まで美しい。

 

「伝えたいのはあの日の夏」が歌詞のモチーフとなっている。

 

「愛の強さ」や「恋の魔法」や「残した夢の続き」じゃなく

「帽子の向こうで息を読まれては 一人空に見送ったあの夏」

がそれより僕が伝えたいことなのである。

何かといえば虫捕りをしていた夏の思い出なんですね。

説教じみた言葉よりも、自分が体験した子供時代の

素朴なあの夏の思い出を伝えたいというところに

すごく感心させられたのだ。

大きなテーマは命。

ただ難しく考えるよりも、美しさや夏の匂いを堪能できる曲。

 

 

 

 

 

 

生きた証明の愛

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この世に於いてのすべての経験は

「愛されること」からはじまったのだ

 

そんな無重力に似た思考のようなものを

あるひとつに集中したとき

そこには引力が生まれる

 

想念を宇宙とする思考には

迷いも戸惑いも 追求も探求も無い

二卵性のような心理と真理がある

 

それはひとつの集中によって

輪郭を持った存在となったまま現れる

 

これを

ある人は閃きという

ある人は悟りという

 

ここでこの詩は完結である

 

はずだったが

 

この世を離れるとき

自分のためだけに心の底から涙を流してくれる人に

 

「これが自分だ」と伝えることができる

この生きた証明の愛を残したいと思ったのだ

 

なぜなら

この世に於いてのすべての経験は

「愛されること」からはじまったのだ

 

そんな無重力に似た思考のようなものを

あるひとつに集中したとき

そこには引力が生まれる…

 

 

ASKA「SCENEⅢ」散文詩

 

 

前回「good time」のことを書きながら

ふと気づいたことがあった。

 

ASKAさんの歌には度々、

自分の存在または愛を残したい、伝えたいという想いが綴られている。

 

前回も例を挙げたが

 

「君を愛し続けたすべてを明日の方へ送りたい」<同じ時代を>

 

「素敵な恋をしてたと伝えて

 その言葉が残ればいい 生きればいい」<good time>

 

「何かひとつは生きた証を残してみたい」<夢でいてくれるでしょう>

 

そしてこのSCENEⅢにある散文詩だ。

 

このSCENEⅢは、命のはじまりと輪廻を歌う「birth」という曲から始まり、

アルバム一枚が人の生として円を描いているかのようだ。

「birth」歌詞参照

https://j-lyric.net/artist/a001d20/l0115df.html

 

そしてその象徴のように、歌詞ブックレットに唯一載っていた

しかも「ONE」以来の久しぶりの散文詩

読むとわかるように、最後の一節が最初の一節に戻っている。

終わりなく続いていくように。

 

その中でキーになるのが、

 

「「これが自分だ」と伝えることができる

この生きた証明の愛を残したいと思ったのだ」

 

 この部分が、まさに他の曲の

「自分の存在または愛を残したい、伝えたい」という想いと共通している。

 

ASKAさんは歌を通して「すべては愛だ」ということを強く訴えている。

 

それこそ20代から30代前半くらいは「愛」というと

男女の恋愛という意味合いが強いが

歳を重ねるごとにその「愛」は

人類愛のような広く大きな意味合いを持ってくる。

 

そしてなぜそれほど「愛」を語り、

「愛」を守り、「愛」を残したいと言うのか。

 

その答えのようなものが、この散文詩の中にある。

 

「なぜなら

この世に於いてのすべての経験は

「愛されること」からはじまったのだ」

 

ということであり、

それはつまりbirthの歌詞の一節の

「愛が愛に抱かれたら 人は人を繰り返す」

に繋がるのではないだろうか。

 

good time

 

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【汽水域】

川と海、つまり淡水と海水、そして淡水と海水が混じりあうところ。

川が海に入り込む河口部。

 

この汽水域という言葉を知った数年前。

知り合いの作家さんがこれをタイトルに個展をした際に

「夢とうつつ、あの世とこの世の汽水域」

とDMに書いていたのがとても印象的だった。

はっきりとした境目があるのではなく

ぼんやりと混じりあったところ…

 

ずっとこの「ぼんやり」感を抱いていた曲が「good time」だった。

悪い意味のぼんやりではなく、

輪郭がはっきりしない、

どこという場所でもない中を揺蕩う心地よさである。

 

ASKAさんは度々、生まれ変わりや輪廻をテーマにした曲を書いている。

 

good time歌詞  http://j-lyric.net/artist/a001d20/l000ab6.html

 

youtu.be

 

初めてそんなことを作品にしたのはオンリーロンリーにある「生誕の情景」だろうか。

生まれる直前の記憶があるのだという。

その記憶を散文詩にしたものだ。

 

それから時は経ち、1990年の「See ya」のアルバムの中に

「水の部屋」という作品がある。

「水の部屋」とは「母の胎内」のこと。

鮮明に残っているという子どもの頃の記憶と絡めながら

そこからきて、そこへまた帰っていくという

はっきりと輪廻をテーマにした優しく美しい歌だ。

 

そこからもしばらくはこの手のものを

明らかにテーマにした曲はなかったように思う。

(kicksの「同じ時代を」は輪廻ではないが、

「good time」に繋がるテーマがあるとは思う)

 

「水の部屋」から約10年経った2000年7月

ソロ8作目のシングルとして発表された「good time」

シングルとしてはちょっと地味な印象だった。

ID、ONE、Girlときてのこの曲だ。

実際プロモーションがうまくいかなかったことを

彼の著書700番で書いている。

でも当時からすごく好きだったし、

世の中に切り込んでいくようなインパクトなどよりも

じんわり沁みてくる名曲だと思った。

ただ、リリース当時はまだこの曲の良さを深くはわからなかったんだと思う。

自分が歳を重ねるにつれて、ますますいい曲だと思うようになった。

この曲を作ったASKAさんの歳に近づいたせいか

そのじんわり効いてくるこの曲の味わいがわかるようになったのかもしれない。

ここのところ毎日聴きたくなる曲なので、

ついこの曲の歌詞を取り上げたくなった。

 

本人もセルフライナーノーツの中で

「今までとは違うバラードにしたい」という想いからスタートし、

「僕のなかでは新しいバラードが完成したと思います」と語っている。

この曲で初めて作詞作曲編曲の全てをASKAさん自身が手掛けている

 

話は戻って、なぜ、ずっとこの曲に「ぼんやり感」を抱いていたかと言えば、

所在がわからないところ。

どこかはっきりしないところに漂う感じ。

つまりこの世でもあの世でもない印象を私は受けたのだ。

はっきりとらえられるのは

男女二人の恋愛が一つのモチーフになっているということ。

でもそれは一つのモチーフであって、大きくテーマとするところは

輪廻なのではないかと思う。

 

「もう少し席を詰めてくれ 座り心地にはこだわらない」

 

冒頭の1行目でまず席とは何の席だろう

どこにいるんだろうという疑問から心を掴まれる。

 

それぞれに受け取り方はあるだろうけれど

私には電車の中のシーンが浮かんだ。

ガタゴトと走る電車の中。

それは宮沢賢治銀河鉄道の世界のように、

主人公がいて、そこに絡むように

いろんな人が入れ替わり立ち替わり現れては消えていく。

その電車の席に座る間に、

自分のこれまでに経験してきた「生」の話をするような

そんなシーンをこの歌から感じた。

 

「どっちが恋に落ちた見つけたと言い合っても

前の世じゃそれが約束だったろう」

「一緒に次を思い出してみるよ」

 

愛する人(愛した人)が隣にいる。

そしてその電車で席を共にする人は、

この世からあの世に

またはあの世からこの世を行き来している人たちのように思える。

この電車の中がまさに二つの世界の間にある「汽水域」のように私には感じた。

 

また、この「一緒に次を思い出してみる」は

「水の部屋」の歌詞の

「水の部屋で今を見てる」

「やがて君とこの部屋に帰っていく」

のニュアンスに近いように思える。

この世でもないあの世でもないどちらにも定まらない場所で

次の「生」を見据えてるようだ。

 

「僕らのこと訪ねる人が来たら素敵な恋をしてたと伝えて」

 

「訪ねる人」この電車に、また別の人が来る

それはかつての「僕・僕ら」を知っている人かもしれない。

ここを訪れた人に、「僕ら」の話をするのだ。

 

「その言葉が残ればいい」

 

これは先に挙げた「同じ時代を」の

 

「君を愛し続けたすべてを明日の方へ送りたい

いつか遠い遠い未来の誰かに伝えることができるなら」

 

この部分を想起させる。

 

時代が移り変わって、自分のことを知らない時が来たとしても

この「愛する想い」があったことを伝えたい残したい。

それは現生の世界に限らないかもしれない。

魂が存在する精神的な世界かもしれない。

そんな切実な思いが込められているように思える。

 

自分が生きていたという「愛」の証を残したい、未来に伝えたい

このことはこの後も他の曲や詩に現れる。

きっとASKAさんがずっと強く願っていることなのだろうと思う。

 

そんなふうに歌詞を読みながらふと思うのは

「good time」というタイトル。

これは今生きてる自分の「生」が「good time」なのか

いろんな話を語り合ってるその時が「good time」なのか

次の「生」のことなのか

そんなことを考える。

 

 

また、この「good time」の歌詞を読むうちに思い出したことがあった。

この汽水域ともいえる境目のない世界観が何かに似ているなと。

 

SCENEの歌詞ブックレットに載っていたこの詩である

https://chaka7.hatenablog.com/entry/2019/11/25/012500

思えばこの散文詩も輪廻の世界に触れるものだろうだと思った。

生まれ来る命に語り掛けているようだ。

 

「伝える言葉はないはずなのに

交わした約束は夢じゃない」

 

そういう歌詞や詩には抽象的に効果的に「約束」という言葉が使われている気がする。

 

上に書かなかったが、曲ブリッジ部分の

 

「勝手な話に付き合わせたね

席を詰めてもらうことも約束だったかな」

 

ここは袖振り合うのも多生の縁と同じことのように思える。

 

このように作品を追っていくと

ASKAさんが歳を重ねながら、この愛と輪廻についての考えを

構築していってるんだろうということを思う。

 

その後、「心に花の咲く方へ」

「birth」SCENEⅢの散文詩

「Man and Woman」など

愛や輪廻をテーマにした作品が続けて生み出されていった。

道標

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道標は はじめからあった気がします
 
いつも不安な僕等は、水平線の向こうに広がった
孔雀のような、未来に憧れを感じながら
黄昏の雨にうたれていたのです

道標は はじめからあった気がします

例えば、大きな風が風車を回すのではなく
小さな風車に生まれた風が、遠い海を越える事を知った時も

やっぱり
道標は はじめからあった気がします

夢の下流で見つけた景色がありました
大きく空を突き抜けるような顔で、
心の痛みを抱いてくれるような顔で、
深い優しさと、限り無い厳しさで
すべてを信じあえるような、そんな景色がありました

今、風を受け、順風満帆、ここに迷う事無し

今、風を受け、順風満帆、ここに迷う事無し

今、風を受け、順風満帆、ここに迷う事無し

 

「ConcertMovie GUYS」より

 

BIG TREEツアーのラスト曲前の締めくくりに語られる散文詩

まだ、ミュージシャンのコンサート・ライブというものをよく知らない12,3歳の時、

ライブというものはこういうものなのかと覚えたのが

CHAGEASKAのものだった。

エンターテイメントとして、良く練られ構成されたライブ。

ラストの曲前に語られる散文詩というのは、

最後の最後の気持ちを盛り上げるのにとても効果的だと思えたのは

もっと大人になってからだったけれど、

この頃から自然とそういうものを味わっていたのである。

 

文字を読むのでなく、語られる言葉を耳に全神経を傾けて聞く。

耳に入った言葉を頭の中で拾い集めながら情景を描く。

 

書かれた文字の情報はなく、映像を何度も見ながら覚えた詩は

まさに自分のからだに刻まれたものとして印象深いものとなった。

 

SAYYESのブレイクで勢いをつけ

人気絶頂を迎えた頃の彼らを表すような散文詩である。

 

「夢の下流」が深い眠りから浅い眠りに向かっていくときに見た情景なのか、

それとも一つの夢が到達点を迎えるときに見たものか

どちらかだろうかと想像を掻き立てられる

そして

「順風満帆」というこの言葉に

彼らの活動が最高に満ち満ちているというのは

はっきりと伝わってくる

そんな散文詩だった

蝶々

「蝶々」

 

なんであのとき僕から逃げなかったんだろう

 

春が来る

また思い出す

カミソリでさっと引かれるくらいの深さと速さ

それは三十年もの古い傷と新しさを重ねる痛み

 

ただの人数合わせのために呼ばれた野球だった

特別からだの小さかった僕は

バットに振られるように回った

何度振ってもボールが当たらないのだ

三振というルールは僕にはなかった

それでもゲームに参加してる気持ちは強かった

大きなお兄ちゃんたちと混ざり合うだけで満足だった

 

ふいに蝶々が飛んで来たのは

何度目かのバッターボックスであった

ボールよりも白い蝶々は

ひらひらと僕の顔を回りはじめた

 

本当は可愛かった

本当は欲しかった

蝶々が肩にとまってくれればよかった

そうなればあんなことにはならなかった

 

それまで一度も打てなかった打席

どうせ当たらないだろうと

蝶々めがけてバットを振った

何度も何度も振った

お兄ちゃんたちの前では強い男でいたかった

蝶々を欲しがる子供ではいたくなかった

 

何度かの空振りのあとチッという音がした

僕はそれを皮肉なほどのスローモーションで見た

 

歪な弧を描き

跳ねられるように飛ばされた白い物体

みんなのアッという瞬発の声を夕暮れのグラウンドに残し

あたりは静まりかえった

 

温かい地面のうえで震えるようにして痙攣している白い物体は

そのとき何を思っていただろう

なんであのとき僕から逃げなかったんだろう

 

笑って済ませようとしたが笑いにならず

ぼうっと立ったままだった

 

帰り道僕たちは元気だった

だけど誰もそのことを話さなかった

 

春 蝶々

という具合に僕の連想は一つの光景と事実を連れながら

これからも流れて行く

 

 

 

CHAGE&ASKA

「CODE NAME.2 SISTER MOON」散文詩より

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

 

この季節にいつも思い出す散文詩

 特に解説はいらないだろう

ショートフィルムのように

一場面が鮮やかに

ありありと目に浮かぶ

まるでこの「僕」になったように

 

胸がチクンとする子どもの頃の思い出

 

ASKAさんの幼少の記憶は

かなりしっかりと残っているそうだ

遠い日の記憶がいつも瑞々しく描かれている

だからだろうか

なんとなく自分の子ども時代と重ねてしまう

同じことを経験したわけでもないのに

 

時々ASKAさんの歌詞や詩に登場する蝶々

(例えば

「風のライオン」

<昨夜(ゆうべ)手元に粉雪が来て冬のチョウチョの姿になった>

「君が家に帰ったときに」

<冬の窓を見て蝶がいると言う 枯れた枝にかかる鳥の羽を見て>

「僕がここに来る前に」

<白い花が空へ昇るみたいな蝶々を取りに行こう>など)

 

それはアゲハのような華やかなものではなく

子どもの頃の目で見たあのかわいくて軽やかな

モンシロチョウがいつも浮かんでくる

どことなく郷愁的な優しさを連れてくるのだ

 

日常の風景

日常の風景

 
ヨハン・パッヘルベルのカノンが流れる中を

ひとりの青年がスローモーションで機関銃を撃ち放す

その時

殺戮はまるで日常の風景のようだった

 

かけ離れた出来事というものは他人事のようになるものだ

心の中にザラついたものがない

動かない絵を何も考えず眺めているだけの景色だ

 

自分が自分を気にしすぎると前に進めなくなる

他人の目を気にしても他人はそれほど暇じゃない

 

返せば

みんなが自分にいっぱいなのだ

 

心のわずかな領域で

子猫のように体を寄せあって

明日の重心をとるのも悪くない

 

生きてることに飽きたからといって

直ぐに死ねる人たちには

無言の拍手を贈ってあげよう

 

孤独な冒険家が得る満足は

孤独な冒険家にしか分からない

 

欠落した痛みの理由は

墜落した者にしか分からない

 

傷んだバナナを口に頬張ると

少しだけシンナーの臭いがする

僕にはそう感じるのだ

 

人それぞれは人それぞれに人それぞれを歩き

与えられた地面の上を運命という名で進んで行く

 

僕は夏の海のようにデリシャスで

すべての共有になりたいとどこかでいつも願ってる

それが日常の風景のようになった時

きっと僕は満足するのだ

 

2016.8.5

ASKA_Burnish stone's blogより

 

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ブログに掲載され、その後は詩集の制作のために削除された散文詩

いくつかは詩集に掲載されたが、されないままの素晴らしい詩がある。

もう見れないのはとても残念でもったいない。

これは中でも私がとても気に入ってるものである。

 

書き出しがとても秀逸だと思った。

 

ヨハン・パッヘルベルのカノンが流れる中を

ひとりの青年がスローモーションで機関銃を撃ち放す

その時

殺戮はまるで日常の風景のようだった」

 

穏やかなで幸せに満ち満ちたあのカノンと

機関銃を撃ち放すという衝撃的な場面が

対比するように並べられているのだ。

そしてそんな凄惨な場面が日常の風景であると。

 

まるでシュールな映画の一場面を浮かべるかのようだ。

 

それは私にひとつの場面を思い出させた。

ASKAさんの逮捕の時の映像だ。

それも二度目の時のあの映像。

 

「かけ離れた出来事というものは他人事のようになるものだ」

 

とあるように、自分にとってかけ離れた出来事だった。

報道陣にもみくちゃにされている場面。

それを眺めてなんやかやという憶測で語るスタジオ

さらにそれを呆然と家のテレビで見る自分。

目の前に見えるものを現実に起きているものとは認識できないような状態

 

それは私にとって大変インパクトに残ってしまった場面だけれど、

かけ離れた出来事っていうのはこの世界に常にある。

毎日起こる世界中のニュースに大変だと思いつつも

それを眺めているのは画面のこちら側で

どうしても他人事のようになってしまう。

バランスをうまく取れない。

 

そんなことを思う書き出しの数行。

 

そして人は感じ方も抱える痛みもそれぞれだという

 

その上で最後には、

 

 

「僕は夏の海のようにデリシャスで

すべての共有になりたいとどこかでいつも願ってる

それが日常の風景のようになった時

きっと僕は満足するのだ」

 

生きていれば大なり小なり、凋落はある。

しかしなかなか多くの人が体験しえないほどの転落を彼は味わった。

それでも「歌詞は共鳴」「僕の作る歌はポップス」と言い続けてきた彼は

変わらず「すべての共有になりたい」と願う。

 

http://aska-burnishstone.hatenablog.com/entry/2016/10/28/034613

この時のブログでこんな風に語っていたことがあった。

 

「自然は作って行くものではありません。

自然は作られて行くものです。

意志だけは手放さず。そして、それを見る人たちによって作られて行く。

僕が自然になるためには必要な過程です。」

 

まだ活動を少しずつはじめた彼がいつかブログに書いた言葉が思い出された。

ここでいう自然は、「普通」ということだろう。

事件を起こした特異な存在ではなく

今までのように音楽活動をしてきたその存在に戻ること。

それが日常の風景。

 

つまり音楽活動の中、彼の音楽を聴く人たちに、

大衆に再び認められたいということじゃないかと思う。

もしかしたら、ライブ会場でオーディエンスと一体になった場面を

思い浮かべていたかもしれない。

 

それが日常の風景であってほしいと。

これを書いたときは、

彼にとってはそれがかけ離れたもので、

動かない景色だったのだろうと…